2020年04月02日
ご一報いただければ幸いです
ブログをご覧して頂きありがとうございます。
私ブログを投稿していました娘になります。
3月12日 午後13時23分、病気により永眠しました。
父はこのブログを投稿するのを楽しんでしていました。
ブログの話など度々聞いており、笑顔で話していた父の顔を思い浮かびます。
このブログの事を気にかけていた父なので代わりに投稿させて頂きました。
今までブログをご覧になって頂いた皆様ありがとうございました。
父との思いでにブログは残そうと思います。
私ブログを投稿していました娘になります。
3月12日 午後13時23分、病気により永眠しました。
父はこのブログを投稿するのを楽しんでしていました。
ブログの話など度々聞いており、笑顔で話していた父の顔を思い浮かびます。
このブログの事を気にかけていた父なので代わりに投稿させて頂きました。
今までブログをご覧になって頂いた皆様ありがとうございました。
父との思いでにブログは残そうと思います。
2019年09月06日
思い出を振り返れば
皆さん、こんにちは!
すっかりとご無沙汰しております。高齢のせいでしょうか、なかなか更新できなくなって困っていました。
そこで思いついたのが、ブログの管理画面にある「投稿一覧」です。ここには2007年12月より始めた記事518話が全部見られる仕組みになっています。私にとってどの記事も思い出多いものです。H系のやわらかいテーマから笑い話、そして固い政治などなどいろいろございます。
どうぞ下記のURLをクリックしてご覧いただきたくご案内いたします。
➡ https://tachikawa.tamaliver.jp/sitemap.html
私が大判焼きで使用していた移動販売車がテレドラ「相棒」に変身して登場!
中古業者に売却しましたが廃車にならず元気に登場した時には涙がでました。
参加しています
立川情報をクリックして頂けると嬉しいです!
☆読者の皆さんいつもご協力ありがとうございます。励みになります
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2019年08月10日
JAL123便ジャンボ機墜落事故を思って
みなさま、こんにちは。
すっかりとご無沙汰しております。私、体調がすぐれず更新出来ず申し訳ございません。
しかし、この記事だけは更新しなければと思い発行いたしました。
今年の夏は猛暑日が多くたいへんです。
それは34年前の日航ジャンボ機墜落事故のことです。毎年この日に亡くなられた方への追悼のためと再発防止を心から思っているからです。そして航空機事故の恐ろしさを思い起こしますし風化させないことも大事と思っています。
若い方はこの事故をご存知ないこともあるかと思い概要を説明いたします。
この事故は今から33年前の1985年8月12日、乗員乗客あわせて524名を乗せた羽田空港18:00発伊丹空港行き(18:56着予定)の日本航空123便(B747SR・JA8119通称ジャンボ機)が羽田空港を離陸。
しかし離陸して約30分後に、機体に異常が発生。操縦不能に陥った機体は迷走を続け、パイロットの必死の努力もむなしく、異常発生の約30分後に群馬県と長野県の県境にある御巣鷹の尾根へ墜落したものです。
この事故で乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名でした。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2019年7月の時点で最多のものとなりました。
のちに当時の運輸省の事故調査委員会はこの事故の原因はジャンボ機後部にある圧力隔壁の破損して垂直尾翼の上部と操縦のための油圧系統が破損して操縦不能となり迷走して御巣鷹山間部に激突したものと発表されております。
しかし航空関係者や遺族などの一部からは事故原因の再調査を求める声がありますが現在に至るまで行われていません。
といいますのも事故調査委員会の発表に疑問をもっていると考えられます。
墜落したこのジャンボ機は1978年6月2日大阪空港で着陸の際、機首上げ角度が大きかったため、しりもち事故を起こしたJA8119機だったのです。その結果、圧力隔壁の破損が起きてボーイング社によって修理されたものなのです。
墜落したJA1819号機
一方のJAL機は操縦不能に陥りパイロットは必死で機体を立て直そうとしたのですが迷走を続けたのでした。管制室はどこでも緊急着陸できるよう「羽田空港」「中部空港」そして迷走機の飛行に近い「米軍横田基地」も協力し空港開放で備えていたのです。
この飛行状況を「横田」のレーダーは追い続け関東北部でJAL機の機影が消えたので米軍厚木基地から海軍の夜間偵察ヘリが現場へ向かい山間部で炎が確認されたというのです。
しかしこの米軍救援ヘリが現場へ救出に向かい救難開始寸前に中止を命令され引き返したのです。それは今だに謎につつまれています。一説には政府が断ったとの情報もありました。
もし、このとき米軍救援ヘリが出動していれば、もっと多くの生存者がいたかもしれません。それだけに残念です。
一方、自衛隊の救難ヘリも現場に行きましたが夜間救難設備がなく断念したのです。
結局、翌日から自衛隊による救出が行われ、何名かの生存者が生還いたしました。
二度とこのような悲惨な航空事故を風化させないためにも今年も書きました。
事故で犠牲になられた方のお御霊と、ご遺族様に心から冥福をお祈り申し上げます。
合掌
自衛隊へりによる必死の生存者救出活動
☆この写真の生存者の方は、墜落事故の後は、負傷した体が完治して後に保健師をしていた母の遺志を引き継いで、看護師となり兵庫県の病院で働き始めて、1995年の阪神淡路大震災では多くのけが人の手当てをして活躍しました。
(記事の一部に以前使用したものも含まれています)
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